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株式会社プラネット 代表取締役会長玉生 弘昌さん(2/3)

『私の地図帳』は、様々な分野で活躍するリーダーにインタビューし、地図を参照にしながら人生の軌跡を追っていく波瀾万丈伝です。第一回にご登場いただくのは、流通業界にこれまでにない情報インフラストラクチャーを構築した、株式会社プラネットの代表取締役会長 玉生弘昌氏。その斬新な発想と先見の目は、どのような場所で養われてきたのでしょうか。

アメリカ アトランタ

海外に目を向けて

海外での経験で、特に印象に残っているのは1980年に訪ねたアトランタです。ライオンのシステム開発部に所属していたころです。そこで「オフィス・オートメーション(OA)」のカンファレンスが初めて開かれるということを知り、「何としても参加したい。ぜひ行かせてくれ!」と会社に頼んで視察に渡ったんです。 日本でもそのころワードプロセッサーの研究がはじまっていて、1978年に日本初のワープロJW-10が出たばかりでしたね。とはいえ、当初は800万円ぐらいしましたし、まだ広く普及していませんでした。アトランタは2週間ほどの滞在でしたが、そこで触れた最先端のオフィス・オートメーションの発想はとても衝撃的でしたし、刺激的でした。その体験をまとめた本が、初めて出版した『メーカーが書けなかったOAの本』になります。当時サラリーマンが本を出すなんて、本当に珍しいことでしたね。本業と並行して密かに書いていたので、毎日徹夜で大変でしたが、「会社を変えてやるぞ」という信念を持って取り組んでいました。

洋上~香港~上海

洋上で身につけた強い精神力

アメリカ視察に行ってから色々な環境の変化がありましたね。まず、オフィス・オートメーションに関して雑誌寄稿などをしていたのが目に留まったのか、37歳で産業構造審議会の情報部会委員に就任しました。つまりは経済産業省の委員です。そのあと郵政省の委員にも抜擢され、30代なのに色々な役職がつきましたね。委員会に行くとまわりの先輩方と20歳ぐらい歳の差がありました。それから色々な講演を依頼されるようになったのですが、一番勉強になった体験が、能率協会の洋上研修団の講師を担当したことです。香港や上海など船で巡りながら、オフィス・オートメーションについての講義をするんですが、1週間やるのですから大変ですよ。しゃべる内容がもたないのでグループワークやケーススタディを織り込みながらなんとか講義をしていました。それ以来、度胸がついたかもしれません。迷った時は「やっちまえ」と何でもやる性格がね。

船に乗っている間は会社に行けませんから、その間は休みをとっていましたね。周りからみたら異色のサラリーマンだったのではないかと思います。もちろんやっかみもありました。郵政省の委員会に出席するときなんて、郵政省からライオンの本社前まで立派な車が迎えにくるんです。30代なのにこんなカンジなので、同僚や先輩に嫌われるのも分かります。まぁ色々言われましたが、気にしないで「いざとなったら会社をやめてしまおう」ぐらいの気持ちでいましたね。

富山

湧き上がる新事業の構想

そんな慌ただしい生活を続けていた時、プラネットの事業を思いついたきっかけとなる出来事が起こります。それは、電気通信の自由化です。それまで日本では電話やファックスを設置するのですら、電電公社や電話局の許可が必要で本当に規制が厳しかったのですが、1985年に全面的な自由化が実現されました。実はこれを働きかけたのが金岡幸二さんというインテックの創業者でして、このおかげで沢山のVAN会社ができました。金岡さんとはその前に郵政省でお会いしていたのですが、とても品の良い方でその時は大学の先生かと思っていましたね。インテックは情報サービス産業の先端を走っていて、当時は唯一パケット通信を扱っている会社でした。本社は富山にありますが、その後富山には何回通ったか、もう数えられませんね。

そんな動きがあった頃、ライオンでは既に端末機を、当時は中小企業とみなされていた卸店に置いてネットワーク展開していました。中小企業は1984年から自由化が認められていたのでね。ところがユニチャームが端末機をライオンと共同利用できないかという話を持ちかけてきたんです。いまでは「コラボレーション」という概念がありますが、当時は「ネットワーク」は系列化や囲い込みの道具でしたから、それを競合会社同士が一緒に使うなんて信じられない話です。

そこでユニチャームの堤さんという取締役に会い「何をかんがえているんだ?」と品川の京急ホテルのレストランで食事をしながら、色々と話を聞きました。その時に業界VANという構想に火が付いたわけです。当時のネットワーク技術はすべてダイヤル式で、複数の会社と通信することができませんでしたが、デジタルパケット通信だったらそこが可能になる――とひらめいたんです。そこで、当時パケット通信を扱っていた唯一の会社であるインテックをパートナーにするしかない!と確信しました。

確信から会社設立まで

そこから会社設立に至るまでは、ものすごいスピード感で進んでいきました。当時インテックという会社はだれも知りませんでしたが、ラッキーなことにラインオンの小林敦社長とインテック創業者の一人だった綿貫民輔元衆議院議長が飲み友達だったんです。そこも利用しながら、富山のインテック本社に通い、ビジネスモデルを提案しながら、同社をパートナーにした事業構想を造りあげました。そして1984年の11月に、まずはライオンとユニチャームの端末機共同利用を発表しました。しかし二社だけではもったいない、ならば「みんなで一緒に使えるしくみを提供しよう」と思い立ちます。そこで会社設立構想をして……1985年2月に会社設立準備室をつくりました。40歳の時です。

想いを形にするのは面白くてしょうがなかったのですが、ライオン社内では足をひっぱる人もいました。「社長をだましている。あいつに任せたらどんなことになるか分からない」というウワサをされたりもしましたね。もちろんいい気分はしませんが、会社ができるまでは屈せずに頑張ろうと決めていました。もう辞表の用意もできていましたからね(笑)

しかし会社ができる直前、その新会社の常務取締役に任命されましてね。これはもう頑張るしかないと思いました。ライオン、ユニチャームに加え、資生堂、サンスター、エステー、ジョンソン・アンド・ジョンソンなどいわゆる同業者に「一緒にやろう」と提案し……なんとみな賛同してくれましてね。最終的に8メーカーとインテックが出資し、1985年8月にプラネットが創業しました。

つづく