茂木社長

マンズワイン株式会社 代表取締役社長茂木 信三郎 さん(2/3)


>『私の地図帳』は、様々な分野で活躍するリーダーにインタビューし、地図を参照しながら人生の軌跡を追っていく波瀾万丈伝です。今回登場していただくのは、キッコーマン株式会社にて醤油の海外普及に努め、現在は子会社マンズワイン株式会社にて日本ワインの啓蒙に勤しむ、同社社長の茂木信三郎さん。豊富な海外経験を持つ茂木社長ならではの各国での体験談や、日本ワインにおける今後の展望をうかがいました。

千葉県 野田

初任給でワインを

晴れて社会人になり、キッコーマンに入社し、野田本社にある総務部経理課に配属されました。実は初任給で初めて親父にプレゼントしたのがワインだったんですよね。社会人になるまではキッコーマンでワインをつくっていることすら知りませんでしたが、日本では「赤玉ポートワイン(現赤玉スイートワイン)」のような甘いワインが既に浸透していました。ですからこの時はあえて、フランスの本格辛口ワインを親父と飲みたいと思ったんですよね。

それで忘れもしない4月25日の給料日……当時は現金支給でしたから、もらった給料を握りしめて三越までワインを買いに行ったのですが、その時に知らずに買ったワインがソーテルヌ(ボルドーの極甘口の貴腐ワイン)だったんですよね(笑)。せっかくフランスのワインを買ったのに、それが甘かったことがちょっとショックだったのを覚えています。

社会人としての基盤を築いた新人時代

入社してから経理及び経営企画部には7~8年いましたが、当時はパソコンもなく、電卓ですら各部署に一台しかない時代でした。電卓を使うのにいちいち予約をしなくてはいけなかったのを覚えています。計算はそろばんで行い、やりとりは基本電話でする……そういう時代だったんですよね。ワープロが導入されたときは、設定が大変すぎて四苦八苦したのを覚えています。ファックスが導入されたのもそのあとぐらいかなぁ。今考えたらとにかく恐ろしく不便でしたが、当時はそれが当たり前でしたから、OA機器の進化に少しずつ対応しながら、仕事を習得していきました。経理課や経営企画部は地味な仕事でしたが、社会人としての基盤をここで育むことができ、いろいろ勉強させてもらうことができました。

東京 茅場町

企画宣伝部での活躍

その後、企画宣伝部に異動になり、茅場町の東京支社へ通勤することになりました。ここはうって変わって華やかな部署で、取材や収録立ち合いでいろいろなところに出張しました。『食いしん坊!万才』という番組のスポンサーをしていましたので、その立ち合いでも色々な所に行きました。昭和30年代から、キッコーマンでは「多角化と国際化」という路線をずっと打ち出していましたので、西洋文化やワインを日本に持ってきて普及させるための施策を、企画宣伝部では積極的に展開していきました。醤油は国内であれば宣伝しなくてもある程度は売れます。ですから当時は、醤油よりも、トマトケチャップやトマトジュースなどの商品を展開しているデルモンテや、ワインの雑誌広告やテレビCMに力を入れていました。デルモンテのコマーシャルの撮影の立ち合いでロサンゼルスに行ったのが、自分にとって初のアメリカ訪問でしたね。ベニスビーチに行ったりサンタモニカを巡ったりして、その規模の大きさや開放的な雰囲気、そしてアメリカナイズされた食べ物に、大きなカルチャーショックを受けたのを覚えています。

ワインへの目覚め

1972年のワインブームのころ、やはり自分もワインに目覚めて当時はずいぶんお金を使いました。給料のほとんどをワインに費やすこともあったかもしれません。自社のワインももちろん飲みましたけど、やはりフランスワインがとても魅力的で、よくデパートやワインショップにも買いに行っていました。日本ではまだワイン黎明期ですから、たまに間違った値段がついているワインが店頭に並んでいることもあって、それを見つけるのが密かな楽しみでした(笑)。もっとも、ちゃんとしたデパートはそんなことは無かったですけどね。

アメリカ ウィスコンシン州

海外駐在生活のはじまり

1984年にアメリカのウィスコンシン州の現地法人、キッコーマン・フーズ社(KFI)に出向となり、ウィスコンシンに渡ることになります。こちらで暮らし始めた当初は、とにかくその寒さに衝撃を受けました。摂氏マイナス30~40度という、日本では考えられないような寒さなんです。家から20分ぐらいのところにある工場に車で通っていたのですが、「ガソリンは4分の1減ったらすぐに満タンにしておけ」とよく言われました。どこかでガソリンがなくなってしまったら、寒さで死んでしまいますからね。だから、車には常に毛布やチョコレートやスコップなどを載せて、常に緊張感を持って有事に備えていました。当時は携帯電話も無かった時代なので、何かあっても連絡がとれないですから。

工場では主に、アメリカ市場向けに醤油をつくっていました。ジェネラル・マネージャーを含む技術担当7、8人、事務担当2人、あとは現地スタッフ100人くらいの規模の会社で、私はプランニング&ファイナンス・マネージャーという役職でした。経理や総務などもこなし「何でも屋」みたいに働いていました。アイテムはしょうゆとテリヤキソースの2種に絞り「効率経営」を進めていましたが、事務処理はまだ機械化が進んでいないので手作業が多く、更にはスタッフの人数も限られていたので、とにかく忙しくて。ずいぶん残業ばかりしていました。昼はお客様がよく見えたのでお相手をして、夜に色々な事務作業をして……という多忙な生活を約5年続けました。当初は、あんなに忙しくて寒さに耐えなければいけない生活がどれだけ続けられるのか、と思っていましたが、意外に慣れるものですね。それに冬が寒い分、夏はさわやかでした。

アメリカ カリフォルニア

極寒のウィスコンシンから温暖なサンフランシスコへ

ウィスコンシンに5年間勤めた後は、また5年間サンフランシスコでの勤務となりました。極寒のウィスコンシンの後に気候がよい西海岸に来ると、あまりにも過ごしやすく、天国みたいに感じました。日本人もたくさんいますし、半分日本に帰ったような気分でしたね(笑)。サンフランシスコには、キッコーマンが買収したJFC(ジャパンフードコーポレーション)という日本食を中心とした東洋食品卸事業の会社がありまして、そちらの会社に配属されました。そこでは、醤油はもちろん、味噌、海苔、お茶など、ありとあらゆる日本の食料品を仕入れて販売していましたね。当時は今のような日本食ブームではありませんでしたから、日系スーパーマーケットと日本レストランを中心に販売し、いかに白人マーケットに浸透させるかが課題でした。そこでも、経理や財務を含め様々な仕事を担当していました。

ワイナリーの思い出

そしてやはりナパ・ヴァレーが近かったので、よくナパまで足を伸ばしていました。それまではヨーロッパのワインをよく飲んでいましたが、サンフランシスコにいる間はほとんどアメリカワインを飲んでいましたね。ナパまで行くと、オーパス・ワンやロバート・モンダヴィやイングルヌックといった著名ワイナリーは観光客であふれていましたので、私たちは家族経営の小さな造り手を訪れていました。アポイントもしないまま訪問するんですが、ワイナリーのおやじがふらっと出てきて、ちょっと話をするとすぐに意気投合して色々飲ませてくれるんですよ。その頃、味が分かっていたかはともかくとして、数だけはとにかく飲みました。値段も手ごろで15ドルぐらい出せばなかなか美味しいのが買えましたよ。25ドル出せば結構高級なワインが手に入ったと思います。

つづく

企業情報

マンズワイン株式会社

www.kikkoman.co.jp/manns/