田中社長プロフィール

株式会社電算システム 代表取締役社長執行委員COO田中 靖哲 さん(1/3)


『私の地図帳』は、様々な分野で活躍するリーダーにインタビューし、地図を参照しながら人生の軌跡を追っていく波瀾万丈伝です。今回登場していただくのは、総合型情報処理サービス企業として確固たる地位を築いている「株式会社電算システム」代表取締役社長執行役員である田中靖哲さん。岐阜を拠点に世界に向けて展開するオンリーワン企業に導く手腕に迫ると同時に、それを培った経験談をうかがいました。

岐阜県 幸ノ町

活気ある町に生まれ育って

私が住んでいた幸ノ町というところは、隣の長住町と併せて町全体が総合卸売市場として知られているところで「長住町の市場」として古くから親しまれていました。岐阜内外から買出人が集まってきて、とても活気あふれる街でしたね。両親は塩干品の仲卸業をやっていましたので、私も市場の風景の中で常に暮らしていました。父親は、朝の3時4時に起きてセリに行きます。そのあと、買ってきたものや店の中のものを道沿いに出して並べると、それらを小売人が買いに来ます。市場が終わる昼すぎには片づけて……といったことをよく手伝っていました。

商品が片付くと市場だった場所は広場になるので、そこで子どもたちは、上級生から下級生まで集まり、一緒になって遊んでいました。店の中にはよく、缶詰の箱が積まれていたので、登って楽しんだりもしていました。今で言う「ボルダリング」みたいな感じです。そんなことばかりしていたもので、自然に体力は鍛えられたかもしれません。今考えてみると、幸ノ町では、今後の社会生活に繋がるような、理想的なコミュニティーが形成されていたのではないかと思います。

理科と数学はけっこう得意でしたが、勉強よりも遊んでいた記憶のほうが多いですね(笑)。中学の時はバレーボール部に所属していて、日々活発に動き回っていました。高校までずっと岐阜の親元で過ごしていまして、岐阜県外に行くことはあまりなかったですね。ただ、なぜか京都へのあこがれが若いうちからありました。華やかな歴史と文化がある町に惹かれたのだと思います。

東京 高田馬場

大都会、東京へ

大学は早稲田大学の理工学部に決まり、高校卒業後、はじめて親元を離れて上京することになります。岐阜の和やかな市場での生活から一変、東京は「都会だなぁ」と驚くことばかりでした(笑)。1973年の入学当時から大学院を卒業するまでの6年間、高田馬場と早稲田大学の間ぐらいにある、早稲田通り沿いの下宿屋さんにお世話になりました。今では想像がつかないかもしれませんが、お風呂はなく、トイレは共同……という、「とても快適」とは言えない環境でしたね。それでも友人たちがよく集まって「たまり場」のようになっていました。下宿屋さんとも仲が良く、まるで家族のように過ごしていましたね。実は、その下宿屋が今どうなっているのだろうと思って、最近行ってみたんです。残念ながら当時の建物はなく、マンションになっていたけれど、よく通っていた銭湯とコインランドリーは残っていて、なんだか懐かしかったです。

大満喫した学生時代

学生時代は本当に楽しかったです。毎晩のように、新宿や高田馬場に行って友達と飲んで語り明かしていました。今思うと、留学するなりして、しっかり英語の勉強をすれば良かったのですが、「英語にかかわる仕事にはまず就かないだろう」と、なぜか確信していたんですよね。それはちょっとした後悔のひとつです。就職先自体、まったく考えていませんでしたから。

大学の友人とは、北海道や伊豆や軽井沢など、いろいろな所によく旅行に行きました。スキーが好きだったので、毎年のように長野に滑りに行っていましたね。伊豆では、何人かで別荘を借りて数日間ゆっくり過ごしたり、北海道では、乗り放題のチケットを使って道内を周遊したりしました。今でもお付き合いがある素晴らしい仲間に出会い、貴重な体験をたくさんした、恵まれた学生生活だったと思います。

岐阜県 司町

プログラマーとしての新入社員時代

電算システムには1979年に、システムのプログラマーとして入社しました。両親が岐阜に基盤を作っていたこともあり、岐阜に本社がある会社がやはりいいのでは、と考えたのも就職を決めた理由のひとつです。本来ならば自分が家業を継がなくてはいけなかったのでしょうけど、結局私はずっとこの会社にいたもので、弟が継ぐことになりました。当時の本社は司町という、むかし岐阜県庁があった建物が当時は総合庁舎として使われていたり、今は移転しましたが岐阜大学の医学部があるような、それに繁華街も近いとても恵まれた環境にあり、そこに通勤していました。

入社してからは、多くのクライアント様のプログラムを作りました。プロパンガスの配送時期を決めるプログラムとか、アンケート集計のプログラムとか……関わった案件があまりにも沢山あり、あまり覚えていません(笑)。当時のプログラミングにはCOBOLという言語を使っていたのですが、これは事務処理系に適している簡単かつ効率よい言語でして、比較的失敗なく仕事を進めることができていました。

宮崎

常に、新しいものを取り入れて

この頃は、時代がどんどん進化していましたから、会社もその先端を行くために、常に新しいものを吸収しようとしていました。オンライン通信も積極的に取り入れていくことになり、IBMのシリーズワンという汎用コンピューターのフロントエンド(FEP)処理を行うミニコンを導入することになります。それを学ぶために、2週間ほど研修に行ったのが宮崎県の飛江田というところです。1982年のことでした。

研修先は、宮崎に拠点を置くデンサンという会社です。ここは、IBMのシリーズワンを使ったオンライン通信の先行事例を持った会社で、その仕組みを持って帰ってくることが、私の使命でした。デンサンは当時から最先端の面白いプログラムを組まれていて、当社とは関係のない別会社ではあったのですが、現会長と親交があったため、こうした技術交換も可能だったのです。

そこで学んだことは、私にとって技術者としての「原点」となるような仕組みでした。例えば、「通信が終わったら、その情報処理をする」、「〇時になったら電話する」というように「事象が発生すると、その事象をキーにして動き出す」という仕組み。これはCOBOLを組んでいた中では考えつかなかった、とても面白い発想だと思いましたね。そして、この研修以降、「通信の技術を極めよう」という私の中で技術者としての方向性が決まったのです。

宮崎での研修は、外に出ることもほどんどなく、缶詰のような状況でしたが、とても濃い2週間でした。最後の一日だけ、宮崎の観光案内をしてもらい、鬼の洗濯板や鵜戸神宮など、色々な名所をまわることができました。

つづく

企業情報

株式会社電算システム

www.densan-s.co.jp/